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2013年9月8日日曜日

無自覚な飛躍の足下になにがいるかよく見てみよう

 
 ∧∧
( ‥)演繹的帰納法?
 
  ( ‥)ネットで見た言葉でね
    ‐□
 
 演繹法で戦術を考えるには数多くの戦史を学び、名将たちの経験則や...
 
 ∧∧
( ‥)...経験則って、それ
    帰納法じゃね?
 
  ( ‥)多分、演繹に必要な
    ‐□ 大前提を経験から
      導くこと、
      そして、
      経験から導いた
      その大前提から
      演繹する、
      そういう...意味かな?
      仮にそうだとしたら
      この文章は省略しすぎ
      じゃねえか?
 
 さらに、
 
 何をすべきか(演繹法)
 
 何ができるか(帰納法)
 
 という記述。
 
 ∧∧
( ‥)すべきが演繹って
    どういうことよ?
    数学はすべきという
    義務の塊ですか?
 
  ( ‥)経験的な大前提から
      考えるとこれこれな
      結論に至るので、
      これに対応するべきだ、
      (だから演繹)
      では何をすべきか、
      具体的な方法は何か?
      それを経験的に
      見つけてください
      (ここで帰納法)
      そういう意味...かな?
 
 ごめん、何言ってるんだかよく理解できない。
 
 ∧∧
( ‥)演繹ってのは前提から
    結論を導くことだよね
 
  (‥ )すべての人は死ぬ
      ソクラテスは人だ
      ゆえにソクラテスは死ぬ
      まあ、例えばこういう
      ことよね
 
 ∧∧
(‥ )でも、すべての人は死ぬ、は
\‐   帰納法で得られた結論
     なわけだよね
 
  (‥ )Aさんは死んだ
      Bさんは死んだ
      Cさんも死んだ
      ここから
      すべての人間は
      死ぬだろう、
      そう結論する。
 
 もちろん、こんな結論、実は論理的にはまったく正当化できないのだ。Aさん、Bさん、Cさんは人間ではあるが、人間そのものではない。
 
 ∧∧
( ‥)死んだAさんたちは
    人間という集合の一部では
    あるけども、人間という集合
    そのものではない。
 
  (‥ )一部は全体じゃない。
      一部≠全体だ、
      だのに、
      一部から得た結論を
      全体に普遍する。
      明らかな論理の飛躍だよね
 
 言い換えると、帰納法は非論理的なのだ。少なくとも、演繹を論理とするならそうなる。
 
 だが、論理である演繹は、この”帰納法による飛躍した結論”を前提として組み込んでいる。
 
 つまるところ
 
 ソクラテスはなぜ死ぬか? 
 
 それは一部の観測を乱暴に普遍すると人類のすべては死ぬという、飛躍した前提が得られたこと、それを”論理的に”延長した結果だ。
 
 *だから当たり前の話だけども、いくら論理的に正しくても結論がまるで正しくない、ということは普通に起こる。
 
 ∧∧
(‥ )帰納法で得た知見を前提として
\‐   論理的、
     つまり演繹法で
     結論を見つけ出す。
     これ自体は普通の動作
     なのですけどね。
 
  (‥ )論理で結論が出たら
      それに対応するべき、
      そしてその対応策は
      これまでの経験から探す
      つまり帰納的に探す
      演繹的帰納法とやらは
      正直、何を言ってるか
      分かりかねるが、
      こういう意味だと思うの
      だけども、
      どうだろうね?
 
 ごめん、たぶん、省略されすぎで文章の意味が分からなかった。以上の言い様はあくまでも自分の推論です。
 
 ともあれ
 
 ∧∧
( ‥)でもさあ、実際は
    帰納法と演繹法では
    ほぼ無力なんでしょ?
 
  (‥ )書籍、遺跡には
      ナポレオンに
      言及するものがある
      ゆえにナポレオンは
      実在する。
      この推論は帰納法や
      演繹法では
      正当化できないと
      言われてるね。
 
 まあ、確かにそうだろう。

 三段論法的に言って、
 
 この書籍に書いてあることはすべて正しい
 この書籍にはナポレオンが実在したと書かれている
 ゆえに...
 
 と言って良いのか?
 
 あるいは
 
 書籍Aはナポレオンに言及している
 書籍Bはナポレオンに言及している
 ゆえにナポレオンは”実在した”
 
 と言えるのか?
 
 *言い換えると、ナポレオンが実在する、という仮説さえも導けない演繹法や帰納法だけで世の中を渡っていく、というのは真面目に考えると自殺行為に等しい、という意味。
 
 ∧∧
( ‥)実はこの世界を
    生き抜くためには
    演繹法でも帰納法でもない
    まったく別の方法論が
    必須である
 
  ( ‥)まあ、それは
    ‐□ みんな無自覚にやってる
      わけだから、それを
      いちいちカリキュラムに
      組み込む必要はない。
      先のネット記事で
      そのことに対する
      言及がないのは、
      そう考えたって
      ことなんだろうな。
      省略したんだろう。
 
 だが、しかし、ここで悲観的なことを考える。
 
 帰納法、演繹法、これだけで事足りると有頂天に思い込む。
 
 しかし実際には推論の領域のはるかに大規模ではるかに根源的な部分を、”それ”、つまり帰納法でも演繹法でもないそれ、が占めている。
 
 この時、この事実にまったく無自覚な人はどうなってしまうのか?
 
 ∧∧
( ‥)たぶん、どこかで
 
  (‥ )まあ、破滅するんだろうな
 
 そして彼には、自分がなぜ破滅したのか、理解も納得もまったくできないのだろう。
 
 かくて世界は謎に包まれる。
 
 ∧∧
( ‥)人間の推論にはまるで
    おかしな飛躍が
     隠されている
     しかもそれが重要
     ゆえにそれを忘れては
     致命的
 
  (‥ )飛躍は無自覚に
      行われるのだ。
      だから致命的なのだ
      気づく間違いは
      直せばいいが、
      無自覚な間違いは
      どうにもならん
 
 ほら、僕らの足下になにが潜んでいるか、よく眼をこらしてみるといい。僕らの破滅も栄光も黄昏も、そこに隠れているのだろう。
 
 
   
     
   

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